僕の家には家宝と呼ばれるお宝(それが他人にとって価値あるものかは分からない)が三つある。
一つは家系図。
約400年前まで遡る家系図は巻物数十巻に及び勿体振った桐の箱に収められている。
一つは家系図。
約400年前まで遡る家系図は巻物数十巻に及び勿体振った桐の箱に収められている。
もう一つは刀。
かなり昔にご先祖さんが武勲を立てた折に殿様からもらったとか。
そして最後に鏡。
鏡と言っても大昔の銅を磨いた骨董品。
日本史とかの教科書に載ってるようなやつ、あれの手の平に乗るサイズ。
これまた大層な桐の箱入り。
これら三つのお宝には扱い方が決められていて、家系図はその代の本家の家長しか箱から出してはならない。
刀は売るとかなりの値段で売れる(鑑定したわけではない)が売ってはならない。
家長が月一で手入れすること。
鏡は仏壇に安置し、毎日その無事を確認すること。
決して本家の敷地より外に持ち出さないこと。
家長といえども箱から出してはならない。
・・・だいたいこんな感じ。
これからお話しするのは、この中の銅鏡に関して。
本当なら結構怖い。
その銅鏡は不思議な形をしていた。
六角形の台座に丸い鏡の部分が重なっている。
鏡と言うから覗いてみても、錆びだか細かい傷だかでほとんど物を映す力は失われているようだった。
しかし厚さが2センチくらいの割に重く、霊験新たかな感じはしたものだった。
小学生の頃、友人らと珍しい物自慢大会があって、放課後に各自お宝を公園に持ち寄ったことがある。
みんなはおもちゃっぽい物を持って来たが、僕は件の鏡を持っていった。
触るなとは言われていたがお構いなしだった。
結果は1番宝物らしいということで僕の優勝。
鼻高々で家路に就いた。
そして家で待っていたのは、お察しの通り親父の大目玉。
何か変わったことはなかったかしつこく聞かれ、散々叱られて、二度と触らないと約束させられた。
自分としては壊したわけでもないのに納得いかなかったが、一応謝り決着。
許してもらった。
それ以降は特別に興味があるでもなく、触ることはなかった。
そして去年、僕が二十歳の誕生日を迎える頃に親父から呼び出された。
大学に入り親元から離れた場所で暮らしていた僕は、何事かと思いながら実家に帰った。
親父は仏壇のある部屋に僕を座らせ、話し始めた。
内容を要約すると、我が家に伝わる家宝の由来、取り扱い方。
うちの家系は代々陰陽道に関係し、主に呪物の管理に当たって来たこと。
現在はほとんどの呪物を博物館等へ寄贈し、残っていないこと。
ここまで話し、親父は一息つく。
こんなつまらない話をする為に呼んだのかとウンザリしていたが、ようやく終わりか・・・ホッとしかけた所で「さて、ここからが大事なんだが・・・」と再開。
いい加減眠気が差して来たが、いつになく真剣で聞かざるを得ない。
親父は仏壇に安置してある鏡の入った箱をテーブルに置いて話し始めた。
それはとても信じられないほど現実離れした内容だった・・・要約する。
この銅鏡を何故持ち出してはならないのか。
理由は、過去3回持ち出され持ち出した人間が、3人とも悲惨な最期を遂げているから。
何故箱から出してはならないのか。
それはこの鏡が人の死を写す鏡だから。
持ち出された理由もこれ。
最近までは鏡についての禁忌は迷信と考えられていたが、23年前の出来事により固く守らねばならなくなった。
23年前、それは僕の叔母(親父の姉)が亡くなった年だ。
事故死だったのは聞いていたが詳しくは教えられていなかった。
なんでもこの鏡は、この土地から離れた所に持っていこうとすると、持ち出した者に対し害を与えるらしい。
過去にこの鏡を持ち出そうとした三人は、その害を受けて死んだと伝えられている。
最初は戦国時代に、石田三成の配下に依って持ち出されている。
しかし関ヶ原の合戦後に、三成の死後(徳川家康により斬首)戻ってきている。
二人目は第二次世界大戦中、国家総動員法に基づく金属回収の際、憲兵が無理矢理銅鏡を回収しようとして、祖父の目の前でアメリカの機銃掃射に遭い死亡。
そして三人目が実は僕の叔母だった。
この鏡は叔母の遺品でもあった。
叔母が存命の頃は鏡の呪いめいた話も迷信として気にかけることもなく、たまに訪問するお客にも気軽に見せていたそうだ。
何も映らない珍しい骨董品の鏡として。
お盆に大阪から遊びに来ていた叔母が、帰り際に3つの家宝にお辞儀をし、鏡を手に取った時、自分の顔が映ってしまったらしい。
その時叔母は真っ青になり、洗面所の鏡と銅鏡を何回も見比べていたそうだ。
そして言った。
「家宝に映るあたしの顔が真っ黒なの!」
親父は怖がる叔母を気のせいだとなだめた。
しかしよっぽど恐ろしいものを見たらしく、パニックはおさまらない。
京都にある自分が檀家となっているお寺に銅鏡を持っていき、お祓いをしてもらうと言う。
まあ、掟を破ることにはなるが、それで気が済むならと親父は銅鏡を貸し出すことに同意した。
しかし親父は、同意したことを今でも後悔していると言う。
何故か?それはこのことにより、過去最大の呪いをこの銅鏡が発揮したかも知れないからだ。
叔母は1985年8月12日18時4分、羽田発伊丹行きの飛行機で飛び立った。
あの鏡と一緒に・・・。
かなり昔にご先祖さんが武勲を立てた折に殿様からもらったとか。
そして最後に鏡。
鏡と言っても大昔の銅を磨いた骨董品。
日本史とかの教科書に載ってるようなやつ、あれの手の平に乗るサイズ。
これまた大層な桐の箱入り。
これら三つのお宝には扱い方が決められていて、家系図はその代の本家の家長しか箱から出してはならない。
刀は売るとかなりの値段で売れる(鑑定したわけではない)が売ってはならない。
家長が月一で手入れすること。
鏡は仏壇に安置し、毎日その無事を確認すること。
決して本家の敷地より外に持ち出さないこと。
家長といえども箱から出してはならない。
・・・だいたいこんな感じ。
これからお話しするのは、この中の銅鏡に関して。
本当なら結構怖い。
その銅鏡は不思議な形をしていた。
六角形の台座に丸い鏡の部分が重なっている。
鏡と言うから覗いてみても、錆びだか細かい傷だかでほとんど物を映す力は失われているようだった。
しかし厚さが2センチくらいの割に重く、霊験新たかな感じはしたものだった。
小学生の頃、友人らと珍しい物自慢大会があって、放課後に各自お宝を公園に持ち寄ったことがある。
みんなはおもちゃっぽい物を持って来たが、僕は件の鏡を持っていった。
触るなとは言われていたがお構いなしだった。
結果は1番宝物らしいということで僕の優勝。
鼻高々で家路に就いた。
そして家で待っていたのは、お察しの通り親父の大目玉。
何か変わったことはなかったかしつこく聞かれ、散々叱られて、二度と触らないと約束させられた。
自分としては壊したわけでもないのに納得いかなかったが、一応謝り決着。
許してもらった。
それ以降は特別に興味があるでもなく、触ることはなかった。
そして去年、僕が二十歳の誕生日を迎える頃に親父から呼び出された。
大学に入り親元から離れた場所で暮らしていた僕は、何事かと思いながら実家に帰った。
親父は仏壇のある部屋に僕を座らせ、話し始めた。
内容を要約すると、我が家に伝わる家宝の由来、取り扱い方。
うちの家系は代々陰陽道に関係し、主に呪物の管理に当たって来たこと。
現在はほとんどの呪物を博物館等へ寄贈し、残っていないこと。
ここまで話し、親父は一息つく。
こんなつまらない話をする為に呼んだのかとウンザリしていたが、ようやく終わりか・・・ホッとしかけた所で「さて、ここからが大事なんだが・・・」と再開。
いい加減眠気が差して来たが、いつになく真剣で聞かざるを得ない。
親父は仏壇に安置してある鏡の入った箱をテーブルに置いて話し始めた。
それはとても信じられないほど現実離れした内容だった・・・要約する。
この銅鏡を何故持ち出してはならないのか。
理由は、過去3回持ち出され持ち出した人間が、3人とも悲惨な最期を遂げているから。
何故箱から出してはならないのか。
それはこの鏡が人の死を写す鏡だから。
持ち出された理由もこれ。
最近までは鏡についての禁忌は迷信と考えられていたが、23年前の出来事により固く守らねばならなくなった。
23年前、それは僕の叔母(親父の姉)が亡くなった年だ。
事故死だったのは聞いていたが詳しくは教えられていなかった。
なんでもこの鏡は、この土地から離れた所に持っていこうとすると、持ち出した者に対し害を与えるらしい。
過去にこの鏡を持ち出そうとした三人は、その害を受けて死んだと伝えられている。
最初は戦国時代に、石田三成の配下に依って持ち出されている。
しかし関ヶ原の合戦後に、三成の死後(徳川家康により斬首)戻ってきている。
二人目は第二次世界大戦中、国家総動員法に基づく金属回収の際、憲兵が無理矢理銅鏡を回収しようとして、祖父の目の前でアメリカの機銃掃射に遭い死亡。
そして三人目が実は僕の叔母だった。
この鏡は叔母の遺品でもあった。
叔母が存命の頃は鏡の呪いめいた話も迷信として気にかけることもなく、たまに訪問するお客にも気軽に見せていたそうだ。
何も映らない珍しい骨董品の鏡として。
お盆に大阪から遊びに来ていた叔母が、帰り際に3つの家宝にお辞儀をし、鏡を手に取った時、自分の顔が映ってしまったらしい。
その時叔母は真っ青になり、洗面所の鏡と銅鏡を何回も見比べていたそうだ。
そして言った。
「家宝に映るあたしの顔が真っ黒なの!」
親父は怖がる叔母を気のせいだとなだめた。
しかしよっぽど恐ろしいものを見たらしく、パニックはおさまらない。
京都にある自分が檀家となっているお寺に銅鏡を持っていき、お祓いをしてもらうと言う。
まあ、掟を破ることにはなるが、それで気が済むならと親父は銅鏡を貸し出すことに同意した。
しかし親父は、同意したことを今でも後悔していると言う。
何故か?それはこのことにより、過去最大の呪いをこの銅鏡が発揮したかも知れないからだ。
叔母は1985年8月12日18時4分、羽田発伊丹行きの飛行機で飛び立った。
あの鏡と一緒に・・・。
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