私が警備員のバイトをしていた時の話です。
転属先はとあるホテルで、夜間の勤務シフトは二人でやってました。
そこで警備会社のNさんと知り合ったんですが、そのNさんが体験した話です。

数年前、ある家電メーカーで働いていたNさんは、リストラされそうでした。
そして出向先の子会社から、研修所に追われたそうです。

関東の某所にある寮付の研修センターでは、メーカーのリストラ対象者が集められパソコンのスキルアップを強いられました。
講習と技術検定、資格取得のハードスケジュールでそれをクリアした者だけが新たな勤務先に送られたそうです。

Nさんはついてゆけず、かといって退職する勇気もなく精神的に追い込まれた状態でした。
それでも土日研修所に残って、資格試験の勉強に励んでいたと言います。

管理人は別棟で生活していて寮にはNさんただ一人。
夜も更け、もうそろそろ寝ようかと思い建物の端にあるトイレへ。
日々のプレッシャーのせいで、腹下し気味だったNさんは溜息をつきながら便座に腰掛けました。

しーんと静まり返った清潔なトイレ。

ウォッシュレットのボタンを押して、ささやかな気休めに浸っていると、「トン、トン、トン」

誰かがドアをノックしたそうです。

Nさんは管理人のおじさんかと思い、「入ってます」と声をかけました。
すると、ドアの向こうから、明らかに管理人ではない誰かが話しかけてきたそうです。

「山◯◯雄さんですか?」

抑揚のない、少し甲高い感じの声がしました。

「い、いや、違います」

Nさんは動転しながらも、そう答えました。

すると矢継ぎ早に「田◯◯郎さんですか?」

Nさんは思わずドアノブを固く握り締めていたそうです。

なぜなら、扉の向こうに人の気配がなかったからです。

「◯村◯明さんですか?」(Nさんはパニック状態で、ある一人の名前以外、全然覚えていないとのことです)

「M◯Tさんですか?」

ドア越しに、初めて聞き覚えのある名前が告げられました。

「あんた、いったい誰なんだっ!」

Nさんは恐怖に呑まれまいと、怒鳴り声をあげたそうです。

「わたしはし・・・が・・・です」

そののっぺりした声を掻き消すように、Nさんはうなり声をあげながらドアを蹴って外に出ました。

「そしたらさ、そこには、誰もいなかったんだよ」

「それって質の悪い肩たたきみたいなもんですかねえ」

私は一人でトイレに行くことを想像して、皮肉めいた口調で聞きました。

「どうだろうね」

Nさんは感慨深げに遠い目をして言いました。

「M・Tは本社勤めしてた時の上司でね、あの一年前、自殺したんだよ」

私は朝までトイレを我慢しました。