東京近郊のとある駅には気味のよくない噂があるんだそうです。
正確にいうと、駅のエレベーターに。
目立たない、死角にあるそのエレベーターに乗ろうとボタンを押すと、ガラス張りの窓がついているから箱が降りてくる様子がよく見える。
まず目に入るのは暗い縦穴であり、音もなく降りてくるケーブルの一部だ。
その一瞬だけ見えるケーブルに、なにやら黒いものが乗っているというのである。
人影が、だらり、とぶらさがっていることもあるという。
この、問題のエレベーターは、それとすぐわかるのだそうだ。
いつ、誰が書いたのか知れないけれど、コンコースの方にもホームの方にも一方のボタンの字が刃物のようなもので刻み消されていて、かわりに、「天国行き」と、記されているそうだから・・・。
正確にいうと、駅のエレベーターに。
目立たない、死角にあるそのエレベーターに乗ろうとボタンを押すと、ガラス張りの窓がついているから箱が降りてくる様子がよく見える。
まず目に入るのは暗い縦穴であり、音もなく降りてくるケーブルの一部だ。
その一瞬だけ見えるケーブルに、なにやら黒いものが乗っているというのである。
人影が、だらり、とぶらさがっていることもあるという。
この、問題のエレベーターは、それとすぐわかるのだそうだ。
いつ、誰が書いたのか知れないけれど、コンコースの方にもホームの方にも一方のボタンの字が刃物のようなもので刻み消されていて、かわりに、「天国行き」と、記されているそうだから・・・。
普段は、このエレベーターを利用しないある高校生が、たまたま脚を怪我していて、このエレベーターを利用しようとしたそうだ。
彼は、刻み込まれた「天国行き」の文字を「ふん」と鼻でせせら笑い、ボタンを押した。
下から内箱がせりあがってきた。
当たり前といえば当たり前だが、箱の上部には何も乗ってなどいない。
数秒の間を置いて、内側の窓と外側の窓が重なる。
そして、中には一人、学生服の少女が、隅の方でうつむいて立っていた。
やせて、体の細い少女だ。とても細い・・・。
あれっ?
彼は初めて、いぶかしいものを感じた。
箱はすでにホームに到着している。
なのに、外側の扉が開かないのだ。
いつまでたっても。
数十秒。
いや、もう一分は確実に過ぎている。
そうして、彼の前で停止したまま微動だにしないエレベーターのなかには、少女がただ一人、乗っているのだ。
つまり、これは、密室に閉じ込められているということになるのではないか。
・・・彼は、脚の痛みを忘れ始めていた。
「誰か呼んでこなくちゃ」と、いったんは駅長室の方に向きかけた彼の体を、心のなかのもう一人の自分がとどめてこう言った。
「いや、待てよ。ひょっとして、ささいな操作ミスかもしれないじゃないか?どこかのボタンを押すだけですむような。もしそうだったら、どうする?何人も駅員が駆け付けてきたときに、エレベーターはどうということもなく開いていて、中の女の子もどこかに行った後だったりしたら・・・」
「だいたい、中の女の子はどうして何もしようとしないんだ?開閉のボタンを何度も押して試してみるとか、事故のときに通報するインターフォンとか、いろいろできるはずだろ」
彼はいらだちに似たものを感じるのだった。
そう・・・窓から見える少女は先程から微動だにしない。
すでに五分近く扉を開けようとしないエレベーターの中で、パニックに陥って取り乱す様子もなければ、不安げな態度すら見せようとしない。
いや、そもそも表情からしてまったくわからない。
なにしろ、長い黒髪がばさりと顔の前にたれていて、しかもうつむいている。
表情だけでは、ない。
そもそもどんな顔つきなのかも。
最初に彼が見てとったそのとおりに、箱の片隅に背中を預けて、じっと身じろぎもせずに立っているのである。
こうこうとした照明がつくりあげている、じんわりとした影に見紛うほどだ。
どうかすると、その輪郭が滲んで見えさえする。
そんな気さえする・・・。
「体調が悪いんじゃないのか?あの子?」
それなら、少女が動かないの不思議はない。
誰だって、狭いエレベーターに閉じ込められれば気分が悪くなるだろう。
ほんの数分で一歩も歩けなくなるかどうかは疑問だが、現に目の前の少女はそうなっている。
ひょっとしたら、乗り込んだ時点で発作のようなものが起こったのかもしれない。
「こうしちゃあ、いられない」
今度こそ彼は、体をひるがえそうとした。
一刻を争う状況であったなら取り返しがつかない。
・・・が。
・・・バンッ!
彼を再度とどめたのは、破裂音にも似た大きな音だった。
首をねじ向けると、ガラス一杯に真っ黒な何かが広がっていた。
「き。くっ」と、彼はしゃっくりに似た声をあげた。
息が、喉の途中でつまったのだ。
それは、とぐろを巻いた大量の黒髪だった。
髪の毛がエレベーターの内側の窓に、押し付けられているのだ。
そして、手の平。
何か、濡れいるみたいな・・・あるいは、なめくじが這った
後に残す粘液のような・・・跡を窓の上の方に残して、右手の手の平もまたガラスに押し付けている。
彼がエレベーターから目をはなしたのは、一瞬であった。
その一瞬の間にエレベーターの中の少女が、箱の片隅から移動して、強化ガラスのはまった窓に顔面と手の平を押し付けたのだ。
いや、叩き付けたのだ。
今の破裂音は、その衝突音に間違いない。
けれども、たとえ心臓発作かなにかに襲われたとしても、また密室化したエレベーターという異常な状況下でパニックに陥ったとしても、人はそれほどまでにすさまじい勢いで、自分の顔面を叩き付けることが可能なのか?
それも、いままでぴくりとも動かなかった者が、壊れたビデオの早回しさながら、途中の時間を省略したかのような異様な早さで?
・・・とっさに彼は、そこまで考えたわけではない。
ただもう、判断のための冷静さというものを奪われて、呆然としていたというのが本当のところだったろう。
「倒れ込んできた。こっちに。大変だ」
ガラスに顔面を押し付けられているにもかかわらず、依然として顔は見えなかった。
見えるのはただ、うずを巻いている異常なほどの量の髪の毛だけだ。
いや、手の平は見える。
はっきりと、見える。
およそ、血の気というもののない、白い手の平。
それが、ゆっくりと動いている。
そこだけが動いている。
幼稚園の頃のお遊戯。
「むすんで、ひらいて」
さながら、握っては開くのをただ繰り返している。
むすんで、ひらいて、またむすんで・・・。
彼にはそれが自分を呼んでいるように思えた。
きてくれと。
切実に。
声なき声で。
「だ、大丈夫?」
二枚の強化ガラス越しで、もとより聞こえるはずはない。
それでも思わずそう呼びかけながら、彼は一歩を踏みだした。
それから、さらに、もう一歩・・・。
・・・ぐぐっ!!
「うわ!」
彼は、もの凄い力で後ろに引き戻されていた。
間髪を入れず、耳をつんざく警笛がとどろいた。
ぷあぁぁぁぁん!!ごーーーーーっ!!
列車が目の前を通り過ぎてゆく。
まきあげられる髪。
殴り付けるみたいに、額にあたる風。
この駅を通過する特急列車だった。
彼はもう少しで、その鼻面に飛び込むところだったのである。
「ええっ・・・ああ・・・?」
彼は、わけがわからなかった。
だってそうではないか。
自分はずっと、エレベーターに向かいあっていたのだから。
それが、何だってホームから、投身自殺の真似事をしなければならないのか?
特急列車に衝突した場合、人間は部品しか残らない。
即死するのはほぼ確実だが、血しぶきが霧みたいに降り注いだ後は、脊髄の一部や指先。
原形をとどめたりとどめなかったりする臓物。
皮膚や骨がところどころ・・・といった風に。
残骸と化してしまうのである。
やっとの思いで上を見ると、そこには苦虫を噛み潰したみたいな顔の、駅員が立っていた。
おそらくは、厄介な自殺未遂者と自分のことを考えているだろうその駅員に
、彼は身振り手振りまじえて何とかいきさつを説明した。
すると駅員は、やはり苦虫を噛潰したみたいな顔のまま、背後のエレベーターを指し示した。
・・・エレベーターの中は、暗かった。
いや、真っ暗である。
こうこうとした照明も、ガラスに顔面を押し付けた少女の姿も何もない。
いや、そもそもエレベーターはホームになど到着などしていなかった。
彼は、ふらふらとよろめきながら、今度こそ間違いなくエレベーターに近寄っていった。
自分は、最初から何もない暗闇に向かって、気をもみ、顔色を変え、声をかけていたとでもいうのか。
そんなはずは、ない。けっして、な。
確かにエレベーターは到着していたのだ。
少女が乗っていたのだ。
「ソレナノニ・・・」
あたかも彼を嘲笑うかのように、うつろな口を開けている暗い縦穴。
そこから不意に、風がわきおこって顔にあたってくる気がする。
分厚いガラス越しに、そんなことがあるわけはないのに。
風の中に、つぶやきのようなものがまじっている気がした。
女の、けたたましい笑い声のようなものも・・・。
今日も「天国行きのエレベーター」は稼働しているはずである。
誰が記したのかはわからないが、そこには確かに行き先として天国の名があげられている。
必ず行けるとは限らないが、行きたくなくても行くことになる可能性は・・・ある。
彼は、刻み込まれた「天国行き」の文字を「ふん」と鼻でせせら笑い、ボタンを押した。
下から内箱がせりあがってきた。
当たり前といえば当たり前だが、箱の上部には何も乗ってなどいない。
数秒の間を置いて、内側の窓と外側の窓が重なる。
そして、中には一人、学生服の少女が、隅の方でうつむいて立っていた。
やせて、体の細い少女だ。とても細い・・・。
あれっ?
彼は初めて、いぶかしいものを感じた。
箱はすでにホームに到着している。
なのに、外側の扉が開かないのだ。
いつまでたっても。
数十秒。
いや、もう一分は確実に過ぎている。
そうして、彼の前で停止したまま微動だにしないエレベーターのなかには、少女がただ一人、乗っているのだ。
つまり、これは、密室に閉じ込められているということになるのではないか。
・・・彼は、脚の痛みを忘れ始めていた。
「誰か呼んでこなくちゃ」と、いったんは駅長室の方に向きかけた彼の体を、心のなかのもう一人の自分がとどめてこう言った。
「いや、待てよ。ひょっとして、ささいな操作ミスかもしれないじゃないか?どこかのボタンを押すだけですむような。もしそうだったら、どうする?何人も駅員が駆け付けてきたときに、エレベーターはどうということもなく開いていて、中の女の子もどこかに行った後だったりしたら・・・」
「だいたい、中の女の子はどうして何もしようとしないんだ?開閉のボタンを何度も押して試してみるとか、事故のときに通報するインターフォンとか、いろいろできるはずだろ」
彼はいらだちに似たものを感じるのだった。
そう・・・窓から見える少女は先程から微動だにしない。
すでに五分近く扉を開けようとしないエレベーターの中で、パニックに陥って取り乱す様子もなければ、不安げな態度すら見せようとしない。
いや、そもそも表情からしてまったくわからない。
なにしろ、長い黒髪がばさりと顔の前にたれていて、しかもうつむいている。
表情だけでは、ない。
そもそもどんな顔つきなのかも。
最初に彼が見てとったそのとおりに、箱の片隅に背中を預けて、じっと身じろぎもせずに立っているのである。
こうこうとした照明がつくりあげている、じんわりとした影に見紛うほどだ。
どうかすると、その輪郭が滲んで見えさえする。
そんな気さえする・・・。
「体調が悪いんじゃないのか?あの子?」
それなら、少女が動かないの不思議はない。
誰だって、狭いエレベーターに閉じ込められれば気分が悪くなるだろう。
ほんの数分で一歩も歩けなくなるかどうかは疑問だが、現に目の前の少女はそうなっている。
ひょっとしたら、乗り込んだ時点で発作のようなものが起こったのかもしれない。
「こうしちゃあ、いられない」
今度こそ彼は、体をひるがえそうとした。
一刻を争う状況であったなら取り返しがつかない。
・・・が。
・・・バンッ!
彼を再度とどめたのは、破裂音にも似た大きな音だった。
首をねじ向けると、ガラス一杯に真っ黒な何かが広がっていた。
「き。くっ」と、彼はしゃっくりに似た声をあげた。
息が、喉の途中でつまったのだ。
それは、とぐろを巻いた大量の黒髪だった。
髪の毛がエレベーターの内側の窓に、押し付けられているのだ。
そして、手の平。
何か、濡れいるみたいな・・・あるいは、なめくじが這った
後に残す粘液のような・・・跡を窓の上の方に残して、右手の手の平もまたガラスに押し付けている。
彼がエレベーターから目をはなしたのは、一瞬であった。
その一瞬の間にエレベーターの中の少女が、箱の片隅から移動して、強化ガラスのはまった窓に顔面と手の平を押し付けたのだ。
いや、叩き付けたのだ。
今の破裂音は、その衝突音に間違いない。
けれども、たとえ心臓発作かなにかに襲われたとしても、また密室化したエレベーターという異常な状況下でパニックに陥ったとしても、人はそれほどまでにすさまじい勢いで、自分の顔面を叩き付けることが可能なのか?
それも、いままでぴくりとも動かなかった者が、壊れたビデオの早回しさながら、途中の時間を省略したかのような異様な早さで?
・・・とっさに彼は、そこまで考えたわけではない。
ただもう、判断のための冷静さというものを奪われて、呆然としていたというのが本当のところだったろう。
「倒れ込んできた。こっちに。大変だ」
ガラスに顔面を押し付けられているにもかかわらず、依然として顔は見えなかった。
見えるのはただ、うずを巻いている異常なほどの量の髪の毛だけだ。
いや、手の平は見える。
はっきりと、見える。
およそ、血の気というもののない、白い手の平。
それが、ゆっくりと動いている。
そこだけが動いている。
幼稚園の頃のお遊戯。
「むすんで、ひらいて」
さながら、握っては開くのをただ繰り返している。
むすんで、ひらいて、またむすんで・・・。
彼にはそれが自分を呼んでいるように思えた。
きてくれと。
切実に。
声なき声で。
「だ、大丈夫?」
二枚の強化ガラス越しで、もとより聞こえるはずはない。
それでも思わずそう呼びかけながら、彼は一歩を踏みだした。
それから、さらに、もう一歩・・・。
・・・ぐぐっ!!
「うわ!」
彼は、もの凄い力で後ろに引き戻されていた。
間髪を入れず、耳をつんざく警笛がとどろいた。
ぷあぁぁぁぁん!!ごーーーーーっ!!
列車が目の前を通り過ぎてゆく。
まきあげられる髪。
殴り付けるみたいに、額にあたる風。
この駅を通過する特急列車だった。
彼はもう少しで、その鼻面に飛び込むところだったのである。
「ええっ・・・ああ・・・?」
彼は、わけがわからなかった。
だってそうではないか。
自分はずっと、エレベーターに向かいあっていたのだから。
それが、何だってホームから、投身自殺の真似事をしなければならないのか?
特急列車に衝突した場合、人間は部品しか残らない。
即死するのはほぼ確実だが、血しぶきが霧みたいに降り注いだ後は、脊髄の一部や指先。
原形をとどめたりとどめなかったりする臓物。
皮膚や骨がところどころ・・・といった風に。
残骸と化してしまうのである。
やっとの思いで上を見ると、そこには苦虫を噛み潰したみたいな顔の、駅員が立っていた。
おそらくは、厄介な自殺未遂者と自分のことを考えているだろうその駅員に
、彼は身振り手振りまじえて何とかいきさつを説明した。
すると駅員は、やはり苦虫を噛潰したみたいな顔のまま、背後のエレベーターを指し示した。
・・・エレベーターの中は、暗かった。
いや、真っ暗である。
こうこうとした照明も、ガラスに顔面を押し付けた少女の姿も何もない。
いや、そもそもエレベーターはホームになど到着などしていなかった。
彼は、ふらふらとよろめきながら、今度こそ間違いなくエレベーターに近寄っていった。
自分は、最初から何もない暗闇に向かって、気をもみ、顔色を変え、声をかけていたとでもいうのか。
そんなはずは、ない。けっして、な。
確かにエレベーターは到着していたのだ。
少女が乗っていたのだ。
「ソレナノニ・・・」
あたかも彼を嘲笑うかのように、うつろな口を開けている暗い縦穴。
そこから不意に、風がわきおこって顔にあたってくる気がする。
分厚いガラス越しに、そんなことがあるわけはないのに。
風の中に、つぶやきのようなものがまじっている気がした。
女の、けたたましい笑い声のようなものも・・・。
今日も「天国行きのエレベーター」は稼働しているはずである。
誰が記したのかはわからないが、そこには確かに行き先として天国の名があげられている。
必ず行けるとは限らないが、行きたくなくても行くことになる可能性は・・・ある。
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