『歪な理想郷』

売れない絵描きであるY氏は、煮詰まった仕事の疲れを癒そうと、ある山中に分け入った。
しかし、山の奥深くで道に迷ってしまった。
空腹で動けない。
もうダメだ、と諦めかけたその時、森の奥から食べ物の匂いがしてきた。
鼻から脳に染み渡る命の息吹の香しさ。
Y氏の脚に力がみなぎってきた。

森を抜けると、そこには集落があった。
集落では、住人たちが腕によりをかけた料理を振る舞い、皆で舌鼓を打っていた。
住人たちは暖かく迎え入れてくれ、Y氏も馳走にあずからせてもらうことが出来た。

こんな山奥の小さな集落だというのに、豊富な食材に事欠かないらしく、食卓の上には色とりどりの皿が並び、五感を潤してくれた。
子供たちは笑顔で食べ物を頬張り、放し飼いにされている動物たちも、その恩恵を受けていた。
また、この集落には貨幣というものが存在しなかったが、各住人がそれぞれ得意の献立を持っており、料理を作っては他の住人にも振舞っていたので、明日の糧の心配をすることなく、難無く食にありつけた。
まさに、理想郷であった。

Y氏はそんな集落がすっかり気に入り、帰るのも忘れ居ついてしまった。
自身も山へ山菜や茸を取りに行っては、料理の腕を振るい、皆にも食べてもらっていた。
だが、そんな夢のような生活は長くは続かなかった。

ある日、Y氏はいつものように周辺の山へと山菜採りに行った。
しかし、足を滑らせ崖下へと落ちてしまった。
足を挫いてどうにも動けない。
そこへ運良く人が通りがかった。
集落で見たことがある顔だ。

饅頭作りが得意な老人の息子であった。
知らぬ顔というわけではないが、人里離れた山中で見るその男の姿は、やはり異様な姿をしていると思った。
男は父親似で、頬がツヤツヤと照り返り、ふくよかで温和な顔立ちだった。
だが、頭がすっかり禿げ上がり、少年のような声も相まって、至極奇妙に見えた。

「大丈夫ですか?」と、男が駆け寄る。
こちらを心底気遣う声に、Y氏は要らぬ考えが生じた自分を恥じた。
ぐぅ、と不意にY氏の腹が鳴った。

「お腹が空いているのですね?」と言うと、男はとんでもないことをし始めた。

男は自らの顔の肉をつかんだかと思うと、それを引き千切り、Y氏へと差し出した。

「これを食べて、元気を出して下さい」

男が脂ぎった笑顔で迫る。
肉を引き千切った男の顔からは、ドス黒いものが覗いていた。
Y氏は戦慄した。

すると、どこからか黒い鬼が現れ、男に戦いを挑み、そして水をかけた。
男の顔は見る見るうちに、ただれてしまい、ぱったりと倒れ動かなくなってしまった。
だが、しばらくして、犬を連れた面長の女が現れ、溶けた男の顔を真新しい顔へと付け替えた。
新しい顔の男は、黒鬼を握り拳で打ちのめし、山の向こうへと消し去った。
その光景を目の当たりにしたY氏は、足の痛みも忘れ、山を逃げるように駆け下りた。

その後、Y氏は遅咲きながら仕事にも恵まれ、悠々自適の生活を送った。
だが時折り、あの男の顔が脳裏に浮かび、捨てられた古い方の顔が今でも森を彷徨っているのではないかと思うと、怖ろしさで筆が止まるのだという。