学生運動のあった時代というので、70年代の頃の話だろうか。
N君は極めて真面目な学生で、学内をヘルメット姿の学生たちがヤクザまがいに闊歩しているのを避けながら、こつこつと勉学に打ち込む純朴な青年であった。

数に物を言わせて頭でっかちな論争を吹っかけてきては興奮して騒ぎ立てる連中とは違って人当たりもよく、彼は教授たちにも可愛がられていたという。[
ただどことなく・・・線が細いというか、か細いというか、何かが弱い印象があったという。

影が薄いというのだろうか。

ある日、N君が憔悴しきったような顔でふらりと教授室に現れ、来週のゼミをお休みさせていただきたいと言う。
こうやってわざわざ申告しにくる学生は珍しいが、彼が授業を休むというのも珍しい。
教授が事情を聞くと、妹が死んだのだという。

明日、郷里で葬式があるので参列し、できればそのまま少し実家で過ごしたいと。
妹はそれほど年も離れておらず仲がよかったこと、高校を卒業してこちらで就職したがっていたが、娘を都会で一人暮らしさせることに反対した父親に、N君が自分がいっしょに住むからどうか許してやってくれと説得したこと、そうして妹の就職先も決まり、来年からは同居して新しい生活が出来ることを妹は本当に楽しみにしていたのだ。
これからという時に残念でならないと、N君は嗚咽交じりに話したという。

今にも消え入りそうな彼の姿に励ます言葉も見つからなかったが、「来週にはまた授業に出ますから」というN君に、「そんなことはいいからどうか無理はせず、心が晴れるまでご両親と過ごしてきなさい」と教授は送り出したそうだ。

最愛の妹を亡くしたN君の悲しみはどれほど深かったのかは知れない。彼
はそのまま戻ってくることはなく、しばらくして彼の退学届が提出された。

誰にでも優しく常に敬愛の情を忘れない、今時珍しい教え子との交友関係がそんな形で途切れるのを残念に思い、教授はそれからもしばしばN君とは連絡を取っていたそうだ。

そうして彼が大学を去ってから3年の後、今度はN君が急逝したとの知らせがあった。
驚いた教授が彼の実家に駆けつけると、N君の死を知らせてくれた彼の家族が出迎えてくれた。

息子はしばらく前から具合を悪くして寝込みがちであったが、おととい寝床で息を引き取っているのを家人が見つけたという。
まるで蝋燭の炎がひっそり消えていくような最期だが、言われてみれば毎回授業に出ていた彼は病気がちには見えなかったものの、やはりか細いイメージがあった。

もとより寿命というものがあったのかもしれない・・・。
それにしても立て続けに身内の若者が逝去するとは、これ以上の不幸はない。

3年前に可愛がっていた妹が、そして今度はその死を嘆いていたN君までが亡くなったのだ。
N君を偲ぶ思い出話のなかで、そういえばと教授がその亡くなった妹の話を出したときである。
その場に居合わせた親族一同がぎょっとした顔で一斉に教授の顔を見た。

・・・N君に亡くなった妹はいなかった。
正確に言えば、この家族にもとから娘はいなかった。
固くなったその場の空気に教授は混乱しながらも、「自分の何かの勘違いだったのかもしれない・・・」と慌てて取り繕うと、傍にいた親戚の一人が制してこんなことを教えてくれた。

実は、N君は唐突に郷里に帰ってきて以来、しばしばいない妹の話をするようになったのだという。
心配した家族が妹などいないことを諭すと、我に返ったようになるのだが、しばらくするとまたぼんやりした様子でその妹の話をする。
そうしながら、N君は次第に衰えていったそうだ。

学生時代に暖かい実家生活から離れ、一人暮らしをしているうちに疲れ果てて時に精神を病んでしまう者もいることは、長い教鞭生活で教授も知っていた。
見た目にそうは見えなかったものの、ひょっとするとN君は知らず知らずに心を病んでいたのだろうか・・・。

また家族も同様に思ったらしく、彼の健康を考えてやむなく退学の結論に至ったのだという。
N君の穏やかな顔のうちにそのような苦しいものが彼を蝕んでいたのかと、教授は自分の至らなさや悔やみ胸をふさがれる思いで、彼の実家をあとにした。

そうして1年が経ち、N君の一周忌に教授は再び彼の実家を訪れた。
法要が一通り済んで食事の席になった頃、教授はN君の父親から「つかぬことを伺いますが・・・」と一枚の写真を見せられた。

「先生、ひょっとしてこの方に見覚えはありませんか?」と。

前回の葬儀の際に撮影されたものなので、息子に縁がある参列者のはずなのだが、どうしても分からないのだ。
喪服姿の、見たことのない中年の女性であった。

親族、友人の誰に聞いても知らないという。
そもそも葬儀の際、挨拶したのかも定かではない。

その女性は色が白く上品そうな顔立ちなのだが、見た者は一様になんとなく嫌な感じがしたそうだ。

写真を見た教授も、まるで蛇のようなヌメッとした印象を受けた。
そしてその話を聞かされたとき、存在しなかった妹の話、N君の死、そしてN君から感じていた影の薄さが説明しがたい理由でこの女性に繋がっているように思えて、なんとも言えない薄気味悪さを感じたそうだ。

日焼けしてやや傷みが目立つ写真からして、恐らく方々に聴いて回ったのだろうその写真の中で、見知らぬ中年の女はうっすらと笑っていたという。