とある旅館で聞いた話。

そこは、平成になってから温泉地に建てられた新しい旅館で、当然怪しい噂もいわくも何もないはずだった。

にもかかわらず、いつの間にやらいわく付きの客室ができてしまったという。

その客室は、一階の奥から二番目のという、中途半端な場所にあった。
『柏の間』という名前がつけられており、十畳の和室に縁側のついた、旅館によくありがちな間取りの、他の部屋となんら変わりない部屋だった。

創業当時は何もなかったそうだ。
しかし五年ほどしてから、宿泊客が時折妙なクレームをつけるようになった。

曰く、夜寝ていると、廊下に子供の足音や笑い声が響いてうるさい。
注意してくれないか。

曰く、宿泊客の子供なのか、窓から中を覗き込むので、やめさせてほしい。

曰く、壁に変な形のシミがついていて気持ちが悪い。

しかし、クレームのついた日には子供の宿泊客などいないし、従業員が昼間に確認しても、それらしきシミは見つけられない。

そんなことが度々起きていたというが、ある時決定的な出来事があった。

夜中、浴衣をはだけさせた男性が血相を変えてフロントに飛び込んで「でた!」と叫んだ。

その後ろからは、事態を把握できていない様子の女性が、ぐっすり眠り込んだままの子供を抱えて憮然としていた。

その日柏の間に宿泊していたのは、三人の親子連れだった。
子供を早めに寝かしつけた後は夫婦で酒盛りを楽しんでいたが、それも日付が変わる前にはお開きにして布団に入ったという。

うつ伏せになってぐっすり寝入っていた父親だったが、背中に何かが乗るかん感じ目が覚めた。
といっても、頭は半分夢の中だ。
三歳の娘が乗ってきたな、面倒だなと思ったという。

「起きよ」

背中で子供がそう誘った。

「ねぇ、起きよう?」

「うーん、・・・もう朝か?」

「起きよ、起きよ」

「もうちょい、寝かせてくれよー・・・」

「起きよ、起きよ、起きよ、起きよ」

うるさいなぁ、と渋々目を開けた時、完全に父親の頭は覚醒した。
なぜなら、自分の隣では娘がクークーと安らかな寝息を立てている。

「起きよ、起きよ。もう、起きてよう」

では、背中でしきりに起きろと騒いでいるのは、一体誰なんだ?

全身に鳥肌が立ち、体は金縛りにあったように動かなかった。
背中に乗っている何者かは、その後もしばらく声をかけていたが、やがて諦めたのか大きなため息を一つついてフッと消えてしまった。

その途端、体が動くようになり、彼は妻を叩き起こして子供を抱かせ、とにかくその部屋を脱出したのだという。

部屋の妙な噂について、もちろん客には知らせていない。
その家族の体験が真実かどうかは確かめようがないが、従業員からも怪しいと思われていた部屋に宿泊させたのは、旅館の落ち度だ。

女将も出てきて、安眠を妨げてしまったことを夜中に平謝りし、別の部屋を用意して宿泊費も半額にすることで、なんとか溜飲を下げてもらったという。

それ以来、その柏の間に客を泊めることはしなくなったそうだ。

「怪しい話はあの柏の間だけのものだったので、以来そういった話は出なくなりましたよ」

ホッとしたようにそう話してくれたのは、この旅館の女将だった。

私は、他言しないことを条件に彼女に話を聞いたのだ。
なけなしの金で特室を予約したのが功を奏したのだろう。

「今その部屋は、どうしてるんですか?」

「リネン室兼従業員の仮眠室です。客室の並びにあるからお客様が間違って入らないよう、部屋の入り口に大きく『リネン室』と書かざるを得なくて、雰囲気が台無しですよ」

女将は不満そうにそう言った。

「従業員は、誰か仮眠するんですか?」

「気味悪がって、ほとんどの者は使いません。ただ一人だけ、そういうのを全く気にしない者がいて、彼専用になっていますよ。自他共に認める寝汚さでね、起こしてくれるから助かる、なんて、冗談か本気かわからないことを言ってますよ」

かなり特殊ではあるが、適材適所ということか。
私がそう言うと、女将は手を叩いて笑ってくれた。